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2010年01月19日

19世紀の教科書と20世紀の教科書の違い

人体の話には続きがあって、これにもはっとしました。
それは、19世紀の解剖学の教科書と20世紀の解剖学の教科書で大きく違うところがあるけども、それは何か? という話。自分なりに考えてみた。3万5千年不変の人体を見て、どうなっているのかそれを教科書に書く。人体の方は不変。見る側は段々と理解が深まることで「見方」というものがしっかりしてくるからより的確に書けるようになっていくわけだし、肉眼から虫眼鏡、虫眼鏡から顕微鏡へと道具も進化していくわけだから、より細かく書けるようになっているんだろうとは想像がつく。しかし、何百年とそういう作業をしているわけだから19世紀にもかなり細かいところまでわかっていて、びっくりするような内容の違いはなさそうな気がする。むしろ、そんなことがあるほうがびっくりする。

で、その本にはその答えがすぐに書いてあって、「引用の量が全く違う」のだということだった。
そういう専門の教科書を見たことがない私には意外な答えだった。

そして、もっと意外ででびっくりするそのことについての解説は、研究の対象が変化しているということだった。というのは、19世紀までは人体を直接見て書いているが、20世紀は教科書を見て教科書を書いているというのだ。
うーん。これにはうなってしまった。

直接見ることをせずに資料を見るようになるという話は、いろんな分野で起こっていることのようにもおもえる。このことの感想はまた別のときに書くことにしよう。

直接関係がないかもしれないけど、生物は発生と分化を繰り返すという言葉もあった。
それで思い出すことがある。
私が高校を卒業して少しぐだぐだしてから就職をした。県外に働きに出たのだった。学生のころは世の大人というものは学生よりさまざまな苦労をするなんてことは、耳にタコができるほど聞かされていた。そして、私も偉人伝のようなものは何冊か読んだことがあるので大人の世界にはどんなにつらいことが待ち受けているか、理不尽や不条理が襲ってくるか、一通りわかっていて心の準備はできているつもりだったのだ。
しかし、実際に社会生活が始まってみて、親元から離れて働いてみると、本を読んでわかっているつもりの知識というものと、現実今身の上に起きている寂しさやつらさというものは全く別のものだ、ということだった。実際に現実にあたってみて体に感じることと、知識というものは別のものだということがいまさらながら身をもって体験できたという経験だった。
現物にあたって考える→記録に残す→記録を検索するという流れはサイクルのようなものだし、サイクルのように同じところで繰り返さなくても、常にどこかで起きている流れなんだろうなって思うわけです。

年をとることでこういうことを考えたとしても、これは若い人へ引っ越せないことであって、若い人も年をとりながらこれを実体験してもらうしかないわけですね。



Posted by ひで at 23:48│Comments(0)
 
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