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Posted by チェスト at

2010年01月18日

人体と聖書についての取り止めのない話

人体と聖書の話です。
タイトルは仰々しい感じがするけど、専門的な話ではないです。

私たちの日常には「物事を判断する」という作業がつきものです。
その判断するという作業について、何が物差しになっているのかということが気になります。
優柔不断な私には、いつも、これでいいのかということが気になってしまったりするのです。
「普通はここでどんな判断になるのだろう」ということが気になり、私の判断は果たして妥当なのかどうか? 別ないい方をすると、「普通」ってなんだ? ということが常々気になったりするわけです。

しかし、物事は状況によって、そして当事者の都合によって判断の基準はさまざまに変化し、絶対にこれが正解だということはいえなさそうに思えたりします。

そんなこんなを考えているときにであったのが、この二つのもの、人体と聖書だったのです。

人体の話に出会ったのは、養老孟司先生の著書でした。
「人体を読む」、あたりに出てきた話だったと思います。「唯脳論」、「形を読む」あたりの著書を読むとこのあたりのことは詳しく出てきます。
脱線すると、養老先生と立花隆さんの著書を読んでいると、実際に自分の頭で考えて出してきたものを本当に自分の言葉で書いてある本だ、という気がしました。そういう思いもあって、自分でも同じことを考えてみようと思いつつ読み進みましたので、印象も強いです。
人体の話に戻りますと、養老先生の本に解剖学の話が出てきまして、解剖図の歴史的な変遷みたいなお話が出てくるんです。大昔紀元前くらいの解剖図というのは本当に簡単なイラスト見たいなものであり、17世紀あたりにファブリカという本が出版されて正確さというものが革命的に発達したようです。
そうしたものを時系列的に見ていきながらあれこれ解説や考察があるわけですが、はっとしたのが、「人体というものは3万5千年ほど前に現在の種が出てきてこのかたほぼ変化していない」という下りでした。つまりは、記録が残る数千年くらいの間時代とともにどんどん変化してきた解剖図は、3万5千年不変の人体を見て書かれているということです。

変わらないものを見て書かれたものが、時代と共に代わっていくということは、かかれたものの見せている変化は時代を反映しているのだ、ということです。
いわれてみれば当然のことであってなんでもないことを言っているようでもあるけど、数千年の変化を不変の視点から見直すことができるということについて、私はびっくりした瞬間でした。

人体というのが、一つの判断の物差しになりうるということです。

この様な物がほかにもあるのかと思っていたときにぶち当たったのが聖書という書物でした。
これも紀元の前後? に書かれたいくつかの文章を一つにまとめた書物なんですけど、原典は大事にされていて、第何章の何節の何行目にはどんな記述があるとかそういう引用をされたりする書物のようですけども、これが2000年ほど前にできているという事実がすごいわけです。
その同じ書物について、日本語訳がなされるわけです。
90年前の訳文と、現在の訳文を並べてみることができるということです。
そうすると、この100年ほどの間に日本語は激変しているということが見て取れそうです。
このこともびっくりすることの一つでした。

文語体の文章なんて現在は一つも書かれないと思いますけど、文語体の簡潔にして力強かったり、ときに情感豊かだったりすることを思ったりすることがあるのだけど、全く同じ文章を基に時代後とに違う訳が当てられていて、しかも文語、口語いろいろと存在しているというのが面白いなと思いました。

私が子供時代は「ツァラトゥストラはかくかたりき」というクラッシックの曲名がありましたけど、今は「ツァラトゥストラはこう語った」と聞かされるとか。
そのうち、「もろびとこぞりて」も、口語の題名が当てられたり、「主は来ませり」なんて歌詞も変えられて歌うのでしょうかね。
70歳超えの小沢正一さんは軍国少年だったそうで、その当時の大本営発表などは文語だっただろうとおもいますけど、もろびとこぞりてを聞いて「しゅわきませりって聞いて、いったい何が増すんだろう?」と思ったそうですので、明治時代? の訳がそのときすでに通用しなかったんでしょうね。

取り止めのないお話でしたけど、そんなことを考えたりする私です。
  


Posted by ひで at 13:06Comments(0)